伊勢崎勝人 個展『箔の世界展』ギャラリー青葉 2018年9月24日~@Teragishi photo Studio®

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Teragishi photo Studio®から個展のお知らせです!

伊勢崎勝人 個展『箔の世界展』
世界の巨匠 伊勢崎画伯の新たなる挑戦!!

『メロンのある静物』M-12

伝統の技法 箔を使い新たなるリアリティへの挑戦!黄金に光り輝く重圧な作品は、見るものを圧倒する。2018年9月24日(月)〜ギャラリー青葉にて公開!

伊勢崎勝人 個展『箔の世界展』
青葉画荘 卸町店 2F ギャラリー青葉

会期 2018年9月24日(祝月)〜9月30日(日)
11時 OPEN~ 18時まで。新作含め30点強!
是非、ご高覧賜りますようお願い申し上げます。

〒984-0015
宮城県仙台市若林区卸町二丁目8 -3
TEL: 022-231- 4225


2019年1月23日 更新

ただ今、仙台 ギャラリー専にて『箔の世界』part Ⅲ 展開催中の伊勢崎 勝人氏について、美術評論家 奥村 康先生よりご批評頂きましたので、ここにご紹介させて頂きます。

「伊勢崎勝人 箔の世界展」を見て

2018年9月 ギャラリー青葉で開催された「伊勢崎勝人 箔の世界展」を見た。そこには花や果物をモチーフにした静物画30点ほどが展示されていた。私は「メロンのある静物」の絵に強く惹きつけられた。それは金地の背景で、日本の屏風絵と西洋の静物画を融合させたような作品である。

氏の作品に出合い、私の脳裏に浮かんだのはミラノのアンブロジアーナ美術館で見たカラヴァッジョの「果物籠」である。金地とメロンの緑、黄色地に緑の葉という色彩的な対比が生み出す鮮やかな現実感を放つ共通性もあるのである。しかし「メロンのある静物」を静かに眺めると、金地の前に描かれた果物はそれぞれが洋画の陰影法による影を有しているものの、それらのものを乗せるテーブルや籠、地面が描かれていないため日本画の描法のように空間に浮いているような印象すらあるのである。「果物籠」で描かれてある茶色の台も果物を盛っている籠も描かれておらず、リンゴや梨、葡萄の表面にも朽ちて消えてゆくことを感じさせる疵はない。もちろん台上からはみ出させて臨場感を喚起しようとするトロンプルイユ的な仕掛けもないのである。それにも拘わらず、不思議な実在感を放っているのは何なのだろうか。

また、その会場には「M15 果物」と題した同系モチーフの作品がある。その作品は木目のある木の板かテーブルの上に載っており、さらに果物もアケビか葡萄蔓で編まれた果物籠の上に乗せられている。そして板の向こう端は直線で区切られその奥の背景には暗緑色の闇が広がっている。この絵画は主に17世紀にオランダで隆盛を誇った果物や花をモチーフにした静物画に似ている。しかし金地を背景にした「メロンのある静物」はそうした西洋的な静物画とは異質のものを含んでいるのである。私はその空間に何を感じて見入ってしまったのだろうか。

最も強く惹きつけられたのは金地と果物との存在の関連性である。その関連性を見つめる画家の視線をその中に感じたからだと思う。私がその中に何を見たかを振り返って見ると、その時わたしの脳裏には同時に金地に描かれた日本の屏風絵の幾つかが去来したのである。その一つは俵屋宗達の「風神雷神図屏風」であり江戸初期の風俗画「彦根図屏風」などである。それらの絵に共通するのはそこで描かれた金地の空間がこの世とあの世を同時に表す異空間として描かれているということである。

そうしたイメージを抱いた上で「メロンのある静物」を見つめると金地を背景に描かれた果物が現実世界にあって厳然と存在するだけでなくこの世を超えた異次元世界においても存在するという存在の絶対性をその中に見ている作者の視線を感じるのである。

「存在の神秘性を見つめて描く。」これは氏が私に語った言葉である。氏の絵には果物が置かれている現実空間を知らしめるものは描かれていない。果物の肌艶の瑞々しい透明感を感じさせる描き方も強調されていない。果物のもつ生き生きとした透明感ではなく、堅固な存在物としての確かさが強調されている。幾つもの果物はそれぞれ同じような堅固で確かな存在物として眼前にあるように描かれている。

それらの果物は遠い視点ではなく、至近距離で見つめることが出来るように描かれている。見ている自分と見られる対象物が同一の空間にあって、見ているうちに見る自分と対象物が同化し、その対象物を通して自己の存在の意味を問うことが出来るように描かれている。

それでは氏が描こうとした存在の意味とはなんであろうか。そして私がその中に感じている意味はどのようなものなのだろうか。私はこれまでスルバラン・モランディ・ゴッホ・セザンヌなど多くの静物画を見てきた。そしてその中には私の心を強く惹きつける作品が幾つもあった。それらの全ては描かれた対象物を通して、画家の内面の精神や感情を深く感じさせる作品である。

しかしそれらの作品と「メロンのある静物」は違うのである。その違いは日本の風土を背景にしたものであり、日本的な心をその視点の底に秘めているところにあるのである。すぐれた日本絵画の特性の一つに「端を限って奥を限らず」という言葉がある。金地を背景にし、遠近法を消去した氏の画法はそのことを示すものがある。

ただひたすら眼前の果物に焦点を絞り、見つめている視点を感じさせる。ゴッホが日本絵画を評して「ただ一茎の草の芽を描いているのに、日本人は世界を描いている」という意味の言葉を残している。山川草木悉皆仏性。この世に存在するものすべてには仏が宿り、すべてのものは同じ存在の価値を有するという思想がそこにはある。ただ一つのものを描くことが全てに通じるのである。おそらくゴッホは北斎や歌麿の草木画を見てそのような感じ方をしたのではないかと思うのである。

描かれた複数の果物を一つずつ等距離で眺め描く。氏が描いた果物はマスとしての存在物としてまとめられ全体の統一性を形成して表されているが、個々のものはそれぞれ同じ視線で独立して描かれている。個々の果物を切り離して描いたとしても、一本の草を描いた作品同様、世界を見つめる氏の視線が表出されるのである。

氏の心の中がどのようなもので、その中の何がこのような造形をさせているのかについては知ることができない。しかし氏の画法の変遷において今この時期、金地の背景に無意識に辿りついたとすれば、さらに深く自己が生きて感じて蓄積してきたであろう日本の風土によって育まれた精神を見つめて欲しいと願うものである。それは西洋人が描くことが出来ない画法に通じると思えるのである。氏の「メロンのある静物」を見てこのような感想を抱いたのは私だけであろうか。

とりとめのない感想を縷々言葉に置き換えてみたものの私が感じたことを充分に表し得たとは思っていない。しかしこうしたことを促してくれた氏の作品との邂逅には感謝したいと思っている。氏の今後の活躍と新しい画境への到達を心から願うものである。

2018年9月   奥村 康

略歴

1948年 秋田県本荘市生まれ

1975年 東日本放送入社

編成、報道制作

2008年 退社

2000年より 東北大学名誉教授田中英道氏(西洋美術史)に師事。西洋、東洋美術鑑賞に親しむ。日本各地の神社仏閣、美術館のほか、米、英,露、仏、伊,蘭、西、ギリシャ、台湾などの寺院、美術館、博物館などを巡る。特に伊、西は合計8回、通算1年かけて各地を巡る。


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